人々をイスラームへと改宗させているものは何なのか(後半)

クルアーンは人類全体に対し、自分たちの諸事について熟考し、考察するよう呼びかけます。以下は、クルアーンによって述べられているものの一部です。

·        われはこのように、熟慮する人びとのために(われの)印を解明する。(クルアーン ヨナ章24節)

·        かれらは反省しないのか。アッラーが天と地、そしてその間にある凡てのものを創造なされたのは、唯真理のため、また定めの時のためであることを。だが人びとの多くは、主との会見を否認する。(クルアーン ビザンチン章8節)

·        かれこそは、あなたがたのため夜を定め、それであなたがたを憩わせ、また昼間を明々白々にされる方である。本当にその中には聞く耳をもつ人びとに対し、印がある。(クルアーン ヨナ章67節)

·        人間は、(目的もなく)その儘で放任されると思うのか。(クルアーン 復活章36節)

·        あなたがたは、われが戯れにあなたがたを創ったとでも考えていたのか。またあなたがたは、われに帰されないと考えていたのか。(クルアーン 信仰者章115節)

·        それともかれらの多くは耳を傾け、または悟るとでも思っているのか。かれらは家畜のようなものに過ぎない。いや、それよりも道から迷っている。(クルアーン 識別章44節)

·        かれらは反省しないのか。かれらの仲間は気が狂ったのではない。かれは明らかに、一人の警告者に外ならない。(クルアーン 高壁章184節)

·        もしもわれがこのクルアーンを山に下したならば、それはきっと遜って、アッラーを恐れて粉々に砕けるのを見るであろう。こんな譬えを、われは人間に示すのは、恐らくかれらが熟考するであろうと思うからである。(クルアーン 集合章21節)

新ムスリムの改宗のケースについて多くを調べていくと、批判的思考・知的考察が、非イスラームの信仰を棄てるきっかけとなっていることが分かります。そうした信仰は、彼らにとって山をも動かさんばかりのものでしたが、イスラームの基本から見て取れる理性の声によって、打ち消されてしまうのです。ただ単に、考察と熟考を経過することにより、反イスラーム知識人らによる活動や言行などによって覆い隠されたままだったであろうものは明るみに出されるのです。物事の負の側面を見ることだけに満足する者は、真実の光を目にすることはありません。彼らは、決して終わることのない表面的な分析に携わり、不成功のうちに自分たちの誤った哲学を証明しようと試みているだけなのです。

メディアには、人々によるイスラームへの改宗率が様々な場面で引用されます。この記事においてそれらの情報源は確証されていないものの、以下のようなものが挙げられています。

·       The Almanac Book of Facts(米国で毎年発行される年鑑)によると、過去10年間に人口が137%増加している中、キリスト教徒は46%の増加、イスラーム教徒は235%の増加を見せています。

·       米国だけでも、年間10万人がイスラームに改宗しています。男性1人の割合に対し、女性は4人が改宗しています。

·       あるテレビ局の報道によると、ドイツでは毎年4千人がイスラームに改宗しています。

·       英国だけでも、毎年2万5千人がイスラームに改宗しています。

·       まだまだこのような例はたくさんあります。

ムスリムに関しては?

イスラームの教えにおける理性の声が、大勢の非ムスリムをイスラームに改宗させているのであれば、なぜムスリムとして生まれた人々は通常、この宗教の教えに完全に従っていないのでしょうか? 事実問題として、一部のムスリムたちによる批判的思考と熟考の欠如が、ムスリム世界全体における生活を基準以下のものにさせているのかも知れません。イスラームとその教えは、すべての人々が充実した平和な人生を送ることを約束します。しかし、ムスリムたちはその基本を無視し、社会的・倫理的問題に足を突っ込み、不必要な苦痛と損害を自分たちとその家族に与えてしまっています。実際に、もし彼らが自分たちの宗教の教えに耳を傾け、熟考したのなら、彼らの直面する多くの諸問題は解決されるはずなのです。

その教え

この宗教を代弁すべきでない人々による誤解、そしてメディアによる偏向報道によって注意を散漫にされてしまった、イスラームの表面をかじっただけの非ムスリムに対してのメッセージはシンプルです。イスラームの教えを批判的観点から検証してみてください。あなたは、当初そこに存在しないと思い込んでいたよりも、多くの理性を見いだすことが出来るはずです。次に、ムスリムたちに対するメッセージです。私たちは、日常生活の儀礼的実践よりもさらに先について考えないことから、自分たちの宗教の教えの価値を認めていません。学びへの集中的努力と、熟考・考察をより多く行うことにより、私たちの人生を劇的に向上させる宗教的教えに近づくことが出来るはずです。